おかのさん

 

1960年〜2025年まで。

 

1960年、0歳

 

タイトル:ふくらんで。

エピソード:生まれた時の体重は少なかった。その後、事情でしばらく叔母に育てられ、そこでたっぷりミルクを飲んで、パンパンにふくらんだ。以前は「あんなかわいい赤ちゃん、うちにもほしい!」と言っていた近所の子が、帰ってきてふくらんだ私を見て「あんな赤ちゃんならいらない」と言うようになった。

 

記憶のにおい:ミルクの匂い。

 

 

1963年、3歳

 

タイトル:地獄から天国

エピソード:幼稚園での一番古い記憶は、3歳の時の予防注射。注射部屋で痛みと一人でいる不安に耐えて外に出ると、目に映ったのは母の姿。走って母の胸に飛び込み、安堵して思い切り泣いた。

 

記憶のにおい:予防注射のアルコールや薬品と母の匂い。

 

 

1965年、5歳

 

タイトル:トカゲ事件

エピソード:幼稚園の教室に小さな黒いトカゲが迷い込んで、皆はこわがって大騒ぎ。トカゲが平気だった私は、トカゲをつかまえて外へ放してやった。教室に戻ったら褒められると思った先生から「まあきたない!早く手を洗ってきなさい!」と怒鳴られた。とてもショックだった。

 

記憶のにおい:トカゲのちょっと生臭い匂いと教室の木の匂い。

 

 

1966年、6歳

 

タイトル:朝のトマト

エピソード:夏休みに祖母の家にいる時、朝に裏庭に植えられたトマトをもいでくるのが私の役目だった。トマトはもぐときに青臭い匂いがした。真っ赤なトマトは、そのまま上のところを切り砂糖をかけて食べた。

 

記憶のにおい:青臭いトマトの匂い。

 

 

1967年、7歳

 

タイトル:生クリームとスポンジケーキ。

エピソード:近所に当時は珍しかったフランス洋菓子店ができた。厨房がガラス越しに見えるようになっていた。ある日、一人でガラス越しに厨房のケーキ作りを眺めていたら、中からおじさんが出てきて、「ホイ!」と言って私の口に何かを突っ込んだ。それは生クリームがついたスポンジケーキだった。突然のことにびっくりして何も言えなかったけれど、それはすごく美味しかった。

 

記憶のにおい:スポンジケーキと生クリームのにおい

 

 

1967年、7歳

 

タイトル:なちぐろ。

エピソード:家族で佐渡のドンデン山から、入河溪谷を下った。歩きながら母親に「ハイハイネズミの歌」を教わって一緒に歌った。「なちぐろ」という黒砂糖の飴をもらって、初めてなめた。初めての黒砂糖の味は、あまり好きになれなかった。

 

記憶のにおい:黒砂糖の匂い。

 

 

1969年、9歳

 

タイトル:土の中の宝物

エピソード:庭の土を掘っていたら、ある時、表面がツルツルの小さな紫水晶が出てきた。とてもきれいだったので、宝物箱に入れた。

 

記憶のにおい:庭の土の匂い。

 

 

1969年、9歳

 

タイトル:物置の中のトランク。

エピソード:ある時、家の裏にあった物置小屋の奥を探検してみた。暗がりの中に祖父のものらしい朽ちかけた巨大なトランクが置いてあった。あまりに古くて頑丈そうなので、開けてみる気にはなれなかった。

 

記憶のにおい:物置の古いもののまざったにおい

 

 

1972年、12歳

 

タイトル:梅とり

エピソード:家に幹の中が空洞になった梅の老木があった。見かけは今にも枯れそうだったが、毎年梅の実が沢山なったので、父と兄と梅をとって梅酒を作った。父が「生の梅には青酸カリが入っているけど、1つなら食べても大丈夫」と言ったので、生で食べてみた。ちょっと苦くて甘酸っぱかった。

 

記憶のにおい:青梅の匂い。

 

 

1973年、13歳

 

タイトル:かげろう大発生。

エピソード:ある時、家の中でカゲロウが大量発生して、縁側の窓に夥しい数が止まっていて驚いた。あまりに数が多いので、つかまえて捨てるのも大変だった。大量のカゲロウは独特の虫くさいにおいがした。

 

記憶のにおい:カゲロウのにおい。

 

 

1973年、13歳

 

タイトル:マタタビと白い猫。

エピソード:祖父がマタタビの瓶詰の漬物を持っていた。ある日、居間にいたら床のビニールのカーペットをガリガリひっかく音がした。驚いてそちらを見ると、どこからか白いのら猫が入り込んで、ひたすらカーペットをひっかいていたのと目が合った。猫はあわてて逃げて行った。祖父が漬物の汁を床にこぼしたにおいにつられて来たらしい。

 

記憶のにおい:マタタビの漬物のにおい。

 

 

1975年、15歳

 

タイトル:さつきと土蜘蛛。

エピソード:自宅の外側に石造りの低い生け垣があり、さつきが植えられていた。春を過ぎると、ほとんど手入れをしなくてもさつきの赤い花が満開になった。離れたところから見ると、真っ赤な帯のように見えたさつきの根元には、土蜘蛛が細長い袋のような巣を作っていて、慎重に袋をたぐりよせると、中にいるクモをつかまえることができた。

 

記憶のにおい:さつきの葉と土のにおい。

 

 

1980年、20歳

 

タイトル:未来が先にやって来た!

エピソード:スカッシュのインカレの団体戦。手首を痛めていたが、テーピングをして出場。調子が出ずにストレート負け寸前に追い込まれた。その時、突然、そこから逆転勝ちした未来が向こうからやって来るのが見えた。そして、その通りになった。不思議な感覚だった。あとで病院に行ったら手首は骨折していた。

 

記憶のにおい:テーピング、コートのフローリングのにおい。

 

 

1981年、21歳

 

タイトル:地殻変動?

エピソード:ある時、深夜に目覚めると身体が動かなくなっていた。やがて部屋がものすご

い勢いで二回揺れた。翌朝、家族に聞いて地震などはなかったと知った。自分の内面で地殻変動のような変化があったのだと思う。その日以来、あまり読まなかった本を沢山読むようになり、絵画などのアートを初めて美しいと思えるようになった。

 

記憶のにおい:ふとんの綿のにおい。

 

 

1983年、23歳

 

タイトル:世界の色が一変した。

エピソード:木野幹は茶色、葉は緑だと思っていた世界が急にさまざまな色が複雑に織りなす世界に見えるようになった。その頃からパステルで絵を描き始めた。画用紙を指でこすりすぎて指紋が消え、指の皮が破れそうになった。料理の味のように色が混じり合って好きな色に変わってゆくのがすごく楽しかった。

 

記憶のにおい:パステルの粉とねりけしの粘土のにおい。

 

 

1992年、32歳

 

タイトル:新聞で知った事実。

エピソード:自分の眼の病気が進行性で将来失明する可能性が大きいことを新聞記事で初めて知った。病院では知らされなかった事実だった。記事では同じ病気の人がめったに花を咲かせない珍しい花が咲いたのを見て「この花が咲くのを見るのもこれが最後だね」と話していた。その花の香りを嗅いだような気がした。

 

記憶のにおい:新聞紙のにおい、想像した花のにおい。

 

 

2001年、41歳

 

タイトル:最後の映画館。

エピソード:映画が大好きだったが病気が進行すると映画を見るのが難しくなった。最後に映画館で、眼で見た映画はアメリカ映画の「オーロラの彼方へ」だったがもう画面は見えず字幕しか見えなかった。出口に向かいながらもう映画館に来ることはないだろうと思った。いつも嗅いでいる映画館の座席のにおいがしていた。

 

記憶のにおい:映画館の客席のにおい。

 

 

2002年、42歳

 

タイトル:扉が開く。

エピソード:上司に応接室に呼び出され、これ以上目が見えなくなったら任せる仕事はないと言われた。いつか来るかもと思っていたので、これで鍼灸を学んで治療の道に進むことがはっきり決まり、自分の前に扉が開いたような気がした。その後、カップコーヒーの自販機でチャイを買って飲んだ。スパイスと砂糖の甘い香りがした。

 

記憶のにおい:自販機のチャイの匂い。

 

 

2006年、46歳

 

タイトル:肉球は枝豆のにおい。

エピソード:初めての盲導犬スースーに出会う。初対面なのに久しぶりに会えたみたいにとびつかれてびっくりした。耳は大きくて生八つ橋みたいに柔らかく、肉球は煮た枝豆のにおいがした。初めのころはウンチがドッグフードのにおいがしていて盲導犬のウンチは臭くないのかと思った。

 

記憶のにおい:煮た枝豆のようなにおい。

 

 

2009年、49歳

 

タイトル:ホーム転落事故

エピソード:スースーに留守番をさせて白杖で鍼の勉強会に向かう時、最寄り駅でホームから転落した。通過電車がくる駅なので必死にジャンプして自力で這い上がった。落ちた時にとっさに受け身をとったので大けがはしなかったが、膝が少しだけ切れて、血が出ていたらしく、膝に触れた手からは線路の金属と血のにおいがした。

 

記憶のにおい:線路の金属と血のにおい。

 

 

2014年、54歳

 

タイトル:しっぽと共にやって来たにおい。

エピソード:二頭目の盲導犬シジミと出会う。訓練初日にマッサージをしたら、それから毎日床に座っていると身体をぴったりすりよせて来てマッサージをねだるようになった。しっぽをブンブン振る身体からは、ふっとちょっと焦げたパンのようなにおいがした。

 

記憶のにおい:ちょっとこげたパンのようなにおい。

 

 

2018年、58歳

 

タイトル:スースーの旅立ち

エピソード:盲導犬を引退した後も一緒に暮らしていたスースーが旅立った。スースーの身体はまだ暖かくて耳はいつものにおいがした。子供たちが庭の花をスースーのまわりに並べ、皆で思い出を話合った。空気は不思議に明るくて部屋が淡い金色の光に包まれているみたいだった。みんな泣きながらも笑顔だった。

 

記憶のにおい:犬の耳のにおい。

 

 

2020年、60歳

 

タイトル:マスクと消毒。

エピソード:4月頃から不織布マスクと手指の消毒用アルコールのにおいを嗅がない日はほとんどなくなった。漢方薬局の知人に薦められた予防の為の漢方薬を飲むことにも慣れ、飲んだ時に体調がよくない時には味が美味しく感じることを知った。

 

記憶のにおい:新しい不織布マスク、消毒用アルコール、漢方薬のにおい。

 

 

2021年、61歳

 

タイトル:においで感じる季節。

エピソード:盲導犬と早朝に眺めの散歩をする習慣になり、空気に漂う花の香りで季節を感じるようになった。ジャスミンのにおいがすれば春になったと感じ、キンモクセイのにおいがすれば秋になったのだな、と感じる。

 

記憶のにおい:ジャスミンやキンモクセイの花のにおい。

 

 

2025年、65歳

 

タイトル:新しく見えた世界

エピソード:視力を失ってから、他の感覚の解像度が上がり、人や動物の感情の質感を感じたり、以前嗅ぐことができなかったにおいも感じるようになった。2025年頃には、これらの感覚を使って動植物や好物と感覚で交流でき、パートナー犬から彼らのにおいの世界について話を聞けるようになっていると思う。

 

記憶のにおい:嗅いだことがなかったにおい。