クリスさん

 

1968年〜2022年まで。

 

1968年、0歳

 

タイトル:おうし座の赤ん坊。

僕の物語のスタート。僕は4月24日の夕方4時頃、神戸の摩耶山(まやさん)のふもとの小さな医院で産まれた。母から聞いた話では、わりと大きいコロコロ太めの赤ん坊だったそう。なんかおうし座ってコロコロしたイメージしませんか?その医院には大学生の頃までお世話になったので、きっと誕生とともに嗅いだにおいはあの医院の消毒液っぽいにおいだったに違いない。

 

 

 

1971年、3歳

 

タイトル:記憶にございません。

幼稚園前の未就学児。0歳から幼稚園に入園する前までの記憶が見事なまでにない。ただ、伯母によると食べるスピードが遅いわりに食べる量が多かったとか。あと、かすかに記憶にあるのは家にあった洗濯洗剤のにおいで、とても安っぽい人工的な花のにおいだった。人の作り出したイメージのにおいって強烈。

 

 

1973年、5歳

 

タイトル:スモックを着て登園しよう。

幼稚園に入園。幼稚園といえば強烈なにおいの記憶は制服の役割をしていた「スモック」のにおいだ。あのにおいは自分の体臭(特に子どもだから強かったと思う)と教室のにおい(それ自体、建物と園児みんなのにおいをミックスして出来あがったものだと思う)が混ざり合って出来たにおいで、洗たくした後でもとれていなかったと思う。スモックを朝着せられると(年長では自分で着ていたかも?)、そのにおいから「よし!幼稚園の時間だ!」と子どもながらにスイッチが入っていた。

 

 

1975年、7歳

 

タイトル:好きの原点。

小学校に入学。おそらく幼稚園の頃からだとは思うのだけれど、7、8月は母方の実家である長野県の酪農家で過ごした。僕は畑の端にある秋葉様という祠の前に座って過ごすのが大好きだった。ことあるごとに伯母は、秋葉様の祠の前に僕が座っていたのは買い物について行きたいからだと話したが、まるで違う。神様という存在にすごく興味があったし、安心感があったから僕はそこに座っているのが好きだった。今思い返すと、僕が人々の「祈り」というものに興味をもった原点だった。秋葉様の祠の記憶は、その近くにあった集落の共同精米所の玄米と籾殻のにおいにつながっている。

 

 

 

1977~1981年、9歳〜12歳

 

タイトル:牛つながり。

小学校3年生。この頃から教会の日曜学校に通い始めるが、夏はやはり長野の母の実家で過ごす。小学校中学年くらいになると農家にとっては子どもも労働力なので、朝と夕方の牛のえさやりは大事な仕事だった。牛舎は正直、牛のうんち臭くて、そのにおいは好きではなかったけれど、牛が勢いよく配合飼料と藁を食べてくれるのがかわいくて僕はその仕事が大好きだった。うんちのにおいの部分を意識的に除けば、牛はご飯のようなパンのようないいにおいで、瞳がとてつもなく可愛い。おうし座の僕の牛つながりのにおいの記憶。

 

 

1981~1984年、13〜15歳

 

タイトル:バイオレンシャルな香りがする。

中学校に入学。あまりにおいの記憶がない中学校3年間。当時の中学校はどこも多かれ少なかれ荒れていた。自分の身を守ることが第一で、それは中学校の校舎全体にただようバイオレンシャルな雰囲気が醸し出す空気のにおいの記憶とともにある。あまり楽しい記憶じゃないけど、今となってはこういうのも自分の人生を構成している重要なにおいの記憶だと思える。好きな人のにおいを意識した初めての年代だけれど、詳細は秘密。

 

 

1984~1987年、16〜18歳

 

タイトル:ひたすら塩素な青春

高校に入学。子どもの頃から中学生の頃まで本当に大人しい性格だった。このままじゃいけないと思って高校から運動部に入ろうと決意し、一番上達したかった水泳を選んだ。4月から11月まで屋外プールでひたすら練習に打ち込んだ。僕がこの部活から学んだのは、先輩方に揉まれる中で人間関係を作って強く生きることだった。だから塩素のにおいと一緒に覚えているのは、エアサロ(スプレー式の鎮痛消炎剤)香る厳しくも優しかった先輩のにおい。

 

 

1987年、19歳

 

タイトル:何者でもないのだよ、俺たち。

予備校に入学。高校3年間は毎日部活に疲れ果てていて、地理・歴史、英語以外はほとんど勉強が出来なかった。当然、受験戦争に破れ予備校送りとなった。浪人生って学生でもないし、社会人でもない。つまり人生初の何者でもない1年間がやってきたのだ。予備校は高速道路の脇にあったので排ガスのにおいを嗅ぐと、ひたすら勉強したことと予備校生独特のコミュニティでのやや歪んだコミュニケーションの記憶が蘇る。この記憶は今でも人生を強く生きるスパイスになっている。

 

 

1988年、20歳

 

タイトル:祈りと想いは結晶化する。

日曜学校で奉仕。一年の浪人の後、なんとか大学の文学部にすべり込むことができた。ヨーロッパの「祈り」の文化を勉強することが目的だったので、その基礎となるフランス語をひたすら勉強し、留学するためのお金を貯めるためにバイトに明け暮れた。思春期には離れていた教会に再び通うようになる。日曜学校では子どもたちにもみくちゃにされながらも面倒を見る側になった喜びもあった。ロウソクと古い木の椅子のにおいが混ざり合っている聖堂で、聖歌集にはみんなの祈りと想いのにおいが結晶となっていた。

 

 

1990年、22歳

 

タイトル:これを人はカルチャーショックとよぶのだろう。

フランスに留学。大学3年の夏、夢にまで見たヨーロッパ、フランスのリヨンに短期留学。しかしだ、シャルル・ド・ゴール空港からパリの地下鉄に乗っていきなりの衝撃。「臭い!」地下鉄のモーターから出るにおい、地下水のにおい、体臭、しかもいろんな人種のにおいが混ざり合っているにおい、エスニックな食材のにおいなどなど混ざり合っていて日本では感じたことのない衝撃的なにおいの洗礼を受けた。僕が想像、いや期待していたにおいとは全く異なるヨーロッパのにおいだった。

 

 

1992年、24歳

 

タイトル:哀しみは消毒液では消せない。

大学を卒業、そして上京。卒業後も研究を続けるつもりだったので、ある企業でパートのようなかたちで働き始めた。ようやく慣れてきたかなと思った頃、母が倒れたという連絡が実家から入る。僕が親を守る立場になった瞬間だ。すぐに神戸に帰って驚いたのは、想像していた以上に母が重篤な状態だったこと。命が助かったとしてもまず間違いなく要介護になるという先生の言葉に呆然とした。当時はまだ介護システムがあまり整っていなかったので、僕は仕事を辞めて母の介護生活に入った。体を自由に動かせない母の尊厳を守るために嗅いだにおいは、病室で嗅いだ消毒液では消せないものだった。

 

 

1993年、25歳

 

タイトル:Big Body, Big Heartのお父ちゃん。

新しい人生の始まり。復活祭の後、僕はキリスト教カトリックの洗礼を受けた。洗礼式の日は雨で、教会の庭は新緑が雨に濡れて瑞々しい緑の匂いがしていた。この決意ができたのは、突然にケアラーとなった僕を大きな心で支えてくださったアメリカ人の神父様との出会いが大きい。「あまり細かく物事を見ずに大きな視点で見るようにするといい」と神父様はいつも励ましてくださった。この励ましがなければ母の介護をのりきれたかどうか。神父様はその後もずっと僕のアメリカ人のお父ちゃんでいてくださった。

 

 

1995年、26歳

 

タイトル:砂に化けてゆく本。

介護が落ち着いてから大学院。学位論文「イベリア半島のロマネスク教会キリスト教イスパニア諸王国とフランス(特にクリュニー修道院)との関係において-」で修士号を取得。12世紀は人びとの「祈り」が国際交流をもたらし、美術を国際化した。中世が暗黒時代だったなんて誰が言ったのだろう。「祈り」を中心に市井の人々の美しい生活が営まれていたというのに。大学院ではひたすら英・仏・西語の原書を読んだ。洋書のハードカバーの学術本は時を重ねるごとに砂っぽいにおいが濃くなっていく。僕の通った大学院は欧米についての研究が盛んな大学だったので、図書館は若い砂から年寄りの砂まで幅広い砂のにおいがしていた。

 

 

2000年、32歳

 

タイトル:逃亡先でにおいと文化の関係に覚醒。

社会人まっさかり。ヨーロッパに留学したい、ヨーロッパで働きたいという思いを封じ込めながら、いつでも母の状況に合わせられるように日本で働く日々。ある日「どうしても海外に住みたいんだ!」と父と大喧嘩。「お前はお母さんを見捨てるのか!」と罵られて、僕はカナダのフランス語圏ケベック州のモントリオールに逃亡した。モントリオールの地下鉄の交差点Berri UQAM駅で感じたにおいはフランスのパリやリヨンの地下鉄のにおいそのものだった。文化を共有するということはにおいを共有するものなのだと、初めてにおいを文化の文脈でとらえた瞬間だった。結局、心が落ち着いたと同時に日本に帰国。母を見捨てることなんてできなかった。

 

 

2004年、36歳

 

タイトル:生と死のリアル。

母の帰天が近づく。小康状態のまま続いていた母の容態がある朝激変。そのまま母は植物状態となった。最後に会話したときのことが悔やまれる。父に「僕にばっかり期待しないでくれ!」ってことを会話したときに母も一緒だった。母と似たような容態の患者さんがたくさん入院している病院で、母は約2年間を過ごして神様のもとに旅立った。病院の「匂い」ではなく「臭い」は、今なら人権問題云々になりそうなくらい酷いものだった。けれど、それが死を待つ人たちのリアルなにおいといえるのかもしれない。

 

 

2011年、43歳

 

タイトル:海のラヴェンダー。

父との和解の時間。父に病気が見つかったのは母を見送ってからわりとすぐで、長い闘病生活だった。父が「もう一度行きたい」と言っていたヨーロッパに連れて行く計画を立てた。出発1週間前になって「やはりやめておく。でも、お前はキャンセルせずに旅行に行って、写真と話を聞かせて欲しい」と電話があった。父と一緒に歩く予定だったクロアチアのドゥブロヴニクの市場でラヴェンダーの匂い袋を買った。帰国後、病室で旅の話を嬉しそうに聞いてくれた父に長年のわだかまりがやっと消えて、和解できた気がした。3か月後、父も神様のもとに旅立った。父と和やかに過ごした最後の日々の記憶は海の町で買ったラヴェンダーのにおいとともに刻まれている。

 

 

2016年、48歳

タイトル:生命力溢れるアルムに抱かれて。

オーストリア留学。父と母を見送って時間が経って落ち着いたので、大学時代に訪れてからずっといつか住みたかったオーストリアのチロル州インスブルックの専門学校に留学。アルプスの麓の村のチロルの伝統的な家の一室を借りて暮らし、ひたすらドイツ語の習得とチロルに今も生きているカトリックの「祈り」の民俗を調査、体験、記録することに時間を費やした。様々なしがらみや制限から解放されてひたすら自分のやりたいことに集中できた二度目の青春。アルム(チロルの高地の草原)をわたる風は、若い生命力に満ちたにおいを毎朝運んできてくれた。僕自身も生命力に溢れていたのだろう、インスブルック市内で生涯忘れることはないであろうデートの思い出ができたことも二度目の青春の贈り物。

 

 

2019年、51歳

 

タイトル:人生の目標復活。

新年を巡礼の旅でスタート。今後の指針がなんとなくぼやけていた時、ロンドン、ヨーテボリ、インスブルックの教会を巡礼し、チロルの修道院で数日間祈りの時間を過ごした後、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に。まだ人生において何も達成できていない自分の思いを話した神父様が「あなたの人生はこれから。今からやればいいんだよ。神様は見ていてくださるよ」と。大聖堂の中でボロ泣きしていた。巡礼者が世界中から運んでくるにおいと僕の涙のにおいが混ざった「祈り」のにおい。今後も「祈り」の文化を研究し続けていく人という目標を立てることができて意気揚々と帰国。

 

 

 

2020年、52歳

 

タイトル:においが欠乏する世界。

コロナ元年。2020年1月、コロナはなんの前ぶれもなく突然やって来た。未知のウィルスがひたすら恐ろしくて僕はマスクでしっかりと鼻をガードした。そして家に閉じこもる日々。「におい」という感覚を失いかけているのではないかと思うほど。人があまりいないだろうと思われる時間に出かけた石神井公園でおそるおそるマスクをずらして嗅いだ緑のにおいの清々しさに感動した。においを楽しむという当たり前だった行為がいかに貴重だったかを痛感。においが欠乏する世界は色を失った世界のようだった。

 

 

 

2022年、54歳

 

タイトル:今を生きよう。

人生の折り返し地点。コロナがようやく落ち着いてきたかと思うと戦争が始まって、心が揺さぶられることが続く日々。なかなか先が見通せない中、僕は旧約聖書のコヘレトの手紙を読み込んだ。過ぎ去った時間でもなく、遠い未来でもなく、今を心に適うように歩むことが人生にとって大切なのだと僕は解釈した。30年以上使ってきた聖書には、手垢、涙、住んだ部屋のにおいが織りなす僕の半世紀が刻まれている。両親の病気に伴走することで失った「若い時間」を取り戻すことばかりに縛られていることをようやく認めることができた。もう自分自身を解放しよう「今を生きる」ことを旗印に。人生の折り返し地点に立った僕は、未来のにおいに期待するのではなく、今のにおいを存分に感じ、楽しんでいこうと思うのである。